オリジナル小説「秘密の八重歯」第二章 – 15
ワシントンDC郊外への帰省と仕事への復帰
それから2週間が経ち、キヨはノエルを実家に預けたまま、単身でワシントンへと帰らざるを得なかった。あの厳格な母に、いくら懇願したとしてもノエルを連れ戻すのは不可能に決まっている。ましてや、キヨの知らぬ間に強引に養子にまでしてしまったのだ。兄が戦死してしまい、跡継ぎのいない山田家にとって、いかにノエルが大事な存在であるかは、あのアルバムからも伝わってきた。
シズには、息子のことでなにか困ったことがあれば、国分寺の歯科医に相談してほしいというメモを渡し、ノエルには、必ず日本に戻ってくるという約束をして、羽田からワシントンへと旅立ったのである。
ワシントンナショナル空港では、夫リチャードが出迎えていた。キヨからの手紙で、1人で帰ることになるとは伝えられていたものの、それでもきっと2人で帰ってきてくれるはずと信じて待っていたのだ。
キヨが1人で到着口から出てくるのを見たリチャードは、落胆した表情を浮かべながらも彼女と久しぶりの抱擁をしたあとでこう言った。
「おかえり、キヨ。ノエルはやはり置いてきたのか?」
「そう、なんとか連れ帰るつもりだったけど、ごめんなさい」
キヨは、リチャードに送ってもらうクルマの窓から、ポトマック川岸に咲く桜並木をじっと眺めていた。ワシントンDCの中心部を流れるポトマック川岸には、春になると2000本もの桜が一斉に開花し、日米友好の証である桜のアーケードが出現する。

1912年2月に日本から贈られたソメイヨシノをはじめとする五色桜は、太平洋戦争の間もそのまま残り、植樹から40周年を迎えたこの春には、大がかりな桜祭り(Cherry Blossom Festival)が開かれたばかりだった。美しい新緑へと生え変わったその並木は、澄んだ青空と溶け込んでいる。
バーモント州アーリントンの自宅に半年ぶりに帰ったキヨは、東京での出来事をリチャードに話して聞かせた。横浜の領事館での生活と日本語教育の話が主だったが、リチャードにとっては、遠く離れた日本で暮らす息子のノエルのことが頭から離れなかった。
その2日後、キヨはアーリントンからラングレーにあるCIA本部まで、タクシーを使って出向いていった。語学教育の責任者を訪ねると、その上官はキヨを会議室へと案内して着席するとこう言った。
「君の横浜での研修プログラム、とても評判が良かったぞ」
「ありがとうございます」
「君には、国務省での日本語教師を引き続き担ってもらいたい。横浜での生活はどうだったかね?」
「おかげさまで、ホテルでの生活は快適でした」
「息子さんは元気に暮らしていたかな?」
「それが・・東京の実家に息子を預けていたところ、息子を勝手に養子に入れられてしまい、返してくれないのです」
上官はおどろいた表情になり、キヨの実家の事情を細かく聞いたうえで大きな溜め息をつくと、こう言った。
「君の夫は、何と言ってるんだ?」
「大きく落胆しています。ただ・・夫は交際しているときから結婚して今に至るまで、わたしの実家には一度も挨拶に来てくれたことがないのです。そんな経緯もあり、息子を連れ戻そうにもなかなか手を打てずに悩んでいるようです」
「なるほど・・」
上官はそうつぶやくと、手に顎をのせながらしばらく考えてからこう言った。
「わたしの方でも、何か良い手はずがないかを考えてみる。君たちの生活を守るのもわたしの大事な仕事だからな。良い案がみつかったら必ず連絡するので、それまではしばらく国務省の職場に戻って仕事を続けてくれないか」
「わかりました」
キヨは、そう答えると会議室の席を立って、上官に挨拶すると部屋から出ていった。
GHQ占領下の日本であれば、ノエルを連れ戻すのは簡単なことだったかもしれない。しかし、今となっては日本も主権を取り戻した独立国家である。政治的な圧力をかけることはできても、一民間人の家庭のなかで起こっているこうした問題を解決するのは容易ではない。
上官は、立ち上がって葉巻に火を点けると、窓の外の風景を見ながら思索に耽った。彼が見つめる先には、本部の庭に植えられたメタセコイアが、風に揺られて悠々と葉をなびかせていた。

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