オリジナル小説「秘密の八重歯」第二章 – 16
ワシントン郊外から、キャンプフィンカムへ
ワシントン郊外のアーリントンでの生活に戻ってから、キヨはCIA本部からの司令通り、米国務省での日本語教師の仕事に復帰し、忙しい日々を送っていた。しかし、ノエルのいない毎日は仕事にこそ集中はできるものの、魂の一部が欠けたようで、気持ちがすっきりと晴れることがない。
夫のリチャードにしてもそれは同じだった。38歳で中佐に昇進したリチャードにとって、ペンタゴンでの勤務は軍人としてのゴールといっても良い境遇ではあったが、日本やドイツなどの占領地で新しい地平を築いてきたリチャードにとって、いまひとつ物足りないのも事実だった。ノエルがいれば、仕事以外にも子育てという目標もできたかもしれない。そう思うと、遠い国で暮らす息子のことが頭から離れなくなって、いても立ってもいられなくなるのだ。
キヨとリチャードは、ノエルがいない寂しさを紛らすために、週末にはクルマに乗ってドライブをしたり、映画館へと出かけて気分転換をはかった。なかでも最もキヨが気に入ったのは、1953年に公開されブームとなっていた「ローマの休日」である。

次女とはいえ、裕福な家庭で英才教育を受けながら育ったキヨにとって、主人公の王女が城を抜け出して永遠の都・ローマで、楽しい休日を満喫するというストーリーは、自由を求めてアメリカ留学を果たした自分の姿と、どこかオーバーラップするところがあったのかもしれない。
そんな生活が続いているなか、CIAから本部に来るよう連絡があったのは1954年4月のことだった。キヨはすでに32歳になっていた。日本語教師としての仕事も板がつき、外交官の顔を持つスパイを何人も日本へと送り出していた。
CIA本部で上官から告げられたのは、ふたたび日本へと赴任してスパイの試験官として働いてほしいというものだった。リチャードが希望するなら彼も日本の立川基地へと駐留できるように取りはからうという。
ペンタゴンでの仕事に物足りなさを感じていたリチャードにとって、ふたたび日本の基地で要職につけるのは本望かもしれない。しかも、今回はキヨと連れ立っての駐留である。日本に移住すれば、いずれ息子と会える日もやって来るだろう。実際、リチャードはたまにそんな話をキヨに語ってもいたのだった。
キヨは、夫には内密にその話を進めてほしいと上官に伝えた。あくまで、アメリカ空軍からの特命を装わねば、この話はまとまらないと思ったからである。

それから数カ月が経ったある夏の夜、愛車のマーキュリー8に乗って帰ってきたリチャードが、夕食をしながらキヨに伝えたのは、東京への転勤の話だった。彼は、白ワインで乾杯したあとでこう言った。
「キヨ、僕たちが話していたことが現実になったよ!」
「えっ? どういうこと」
「日本への転勤の話だ。今日、正式に軍から司令があってね、君と一緒に立川基地(Camp Fincam)へと行かせてもらえるようになったんだ」
「本当なの?」
「うん、立川では1年前に大きな墜落事故が起きて、乗員の129人全員が死亡するという被害があってね。今後は、こうした事故が起きないよう、今の滑走路を拡張して将来的にはジェット機も離着陸できるくらいの軍事ターミナルを建設することになりそうなんだ。そこで、かつて立川基地の整備に関わった、このわたしに声がかかったというわけさ」
「まあ、でも本当にわたしも一緒に行けるの?」
「うん、基地の近くにはアメリカンヴィレッジが整備されていてね、立派な一軒家で暮らせるそうだよ」
「一軒家ですって?」
「そうさ、今のこの自宅で暮らすのと変わらない生活が送れそうだよ。ただ、君にも仕事があるだろうから、よく話し合ってから来週くらいに返事をしたいと思ってるんだ」
リチャードは、そう言ってキヨの表情をうかがった。キヨは、はじめてプロポーズされたときのことを思い出しながら、笑顔でこう答えた。
「明日、さっそく“会社”に相談してみるわ」
リチャードには内緒だが、この話はCIAも折り込み済みだ。その翌日に上官へと報告すると、引き続き日本で語学教官として働いてもらうので、何も心配する必要はないとのことだった。こうして、東京への移住を前提にリチャード家は大きく舵を取ることになったのだった。
第二章 終わり
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