オリジナル小説「秘密の八重歯」第四章 – 13
夏の終りのブルーライト・ヨコハマ
アメリカンヴィレッジの自宅に戻ったノエルは、センパイOの不思議な一面について考えていた。いつもは、北関東訛りのすこし乱暴な話し方をするが、Oの洞察力は異様に鋭い。一見すると粗野に見えて、実は頭脳明晰なOに対してノエルは一目を置いていたが、それは単に元警察官というOの素性がなせる技なのだろうか・・?
そして、8月23日の多摩駐在所への脅迫実施後、Oの自宅前で目撃したYナンバーのクルマと帽子を被った男の存在が、ノエルにはすこし不気味な裏組織の影を感じさせるのだった。さっき、Oの自宅で彼が話した用意周到な計画は、すべてOが単独で考えたものなのだろうか・・?
計画について話すOの表情は、落ち着いてはいるが据わった目をしている。澄んだ目ではなく、濁った目でもない。それは、自分のアイデアを人に話すときのような生き生きとした表情ではない。暗闇で人を殺めるときのように、暗く淀んでいる冷徹な目だ。ノエルが少年のころ、同じ目をした米兵を基地で見たのを覚えている。
ノエルの母、キヨと父のリチャードは奥の寝室で眠りについている。激化するベトナム戦争の主要基地として機能している横田基地で司令官を務めるリチャードは、激務に追われてノエルに構っている暇はない。一方のキヨの方も米国務省の仕事で忙しい毎日を送っており、父と同様に自分に対しては無頓着に思える。
レーサーを目指して修行をするノエルに対して、心配する素振りを見せたのは初めのころだけだった。大学へ進学せずに自分の夢へ向かって突き進んでいる息子に対して、その夢を阻むようなことは2人とも言わなかった。一家が裕福だったこともあるかもしれないが、正直なところ、自分に構っている余裕が両親にないことはノエルも薄々感じていることだった。

あくる日、ノエルはレーシングチームでの仕事の帰りに、カオリを誘ってスカイライン1500でドライブに出かけた。センパイOが乗っているGT-Bのエンジンには及ばないものの、シャーシは同じだ。レーシングチームのメカニックに相談すれば、見違えるように早いクルマに改造してもらえることは知っていたが、何分盗んだクルマのためにそれをすることもできない。
ノエルは、スカイラインでカオリが一人暮らしをしている小平のアパートへと彼女を向かえに行った。アパートの前にクルマを停めて部屋のドアをノックすると、奥から“もうちょっと待って”という声が聞こえた。ノエルは、クルマのなかで待ってると伝えてスカイラインの運転席に戻った。
それから5分くらいして、金色のタンクトップにヒョウ柄の帽子を被ったカオリが出てきて助手席に座った。
「お待たせ、どうこの帽子?」
「似合うよ」
「わたしの誕生日に買ってくれたイヤリングの色に合わせて、ネックレスも買ったの」
カオリは、うれしそうにそう言うと、髪をあげて耳元のイヤリングを見せた。ほのかに、香水の匂いがクルマのなかを満たしていく。
「今日は、横浜までドライブしよう」
「いいわ、素敵ね」
ノエルは、府中街道を南下してスカイラインを軽快に走らせた。学園通りの交差点を渡るとき、ノエルは府中刑務所のある学園通りの方向を眺めた。学生たちが帰宅している平穏な風景である。クルマは是政橋を渡り、アカシア通りを通って多摩川沿いに走った。そして、466号へと抜けて横浜の山下公園の前で路上駐車すると、2人は桟橋に横付けされている氷川丸をしばらくボンヤリと眺めた。

氷川丸が戦前と戦後に運航していたシアトル航路は、戦後いち早くノエルの母、キヨがミシガンへと旅立った際に何日もかけて貨物船で辿った航路である。ノエルがキヨに連れられて初めて日本へ上陸したときは、ロッキードのコンステレーションでの空旅だったが、キヨからは船旅の大変さについて何度も聞かされている。ノエルは、氷川丸を見ながら呟いた。
「オレの母は、戦後間もなく横浜から貨物船でアメリカへと渡ったんだ」
「えっ すごいじゃない・・それ本当?」
「うん、何十日もかけてシアトルへ行き、そこから更にニューヨークへと航海する、気の遠くなるような旅だったそうだよ」
「今なら飛行機で、すぐに行けるのにね」
「そう・・その時のことを未だに母は話すことがある。もし、男に生まれ変わっても、船乗りだけには絶対にならないと、航海中に何度も誓ったそうだよ」
「客船の旅なんて、豪華そうだと思うけど、そんなに生やさしくないってことね?」
「うん、オレの父親も空軍佐官だから、船にはあまり縁がなかった。まあ、太平洋戦争のころは戦闘機ですら空母艦からの離陸がメインだったから、その当時はさんざん船に乗ったんだろうけどね」
「すごいわね、そういえばあなたはアメリカ生まれだったわね?」
「うん、ミシガン州のアナーバーというところで生まれて、3歳のころ日本に移ってきた。アメリカで生活した時のことは、正直あまり覚えてないんだ」
「赤ちゃんの記憶って、言葉を覚えてからでないと残らないんだって。あなたの記憶は日本語? それとも英語?」
ノエルは、カオリにそう聞かれて不思議な気持ちになった。自分が唯一覚えていたのは、アリスという女性の名前だった。アメリカンスクールに通いはじめた頃、英文で書かれた童話『不思議の国のアリス』を読むと、何とも言えない懐かしさがこみ上げてくるのをノエルは感じていた。キヨが好きな本だとは知っていたが、童話のストーリーよりも主人公アリスの存在が、自分には懐かしく感じるのだ。そこからは、やさしい女性のイメージと甘いミルクの香りがいつも同時に浮かんでくる。
一方、父のリチャードが自分に買い与えたのは、サン=テグジュペリの『星の王子さま』だった。この小説の冒頭で、作者はフランス東部の山荘で暮らしているレオン・ヴェルトという男性にこの小説を捧げている。何でも知っている大人のヴェルトに、子供の頃の純真な気持ちを取り戻してほしいという思いからこの小説は書かれている。ノエルは、このヴェルトにセンパイOの影をダブらせるのだった。
「大切なものは、目に見えない・・」
ノエルがそう呟くと、カオリは何?と聞いた。
「『星の王子さま』のなかで出てくる有名な言葉さ。物事は、心を通してしかその本質は見えてこないという意味だよ」
ノエルは、そう言ってカオリの手を握ってクルマに戻ると、関内にあったバーの前でクルマを駐めた。バーの薄暗い店内に入っていくと、あまり聴いたことのない黒人音楽が流れている。立川や福生のゴーゴー喫茶とはまた違った大人の雰囲気だ。
ノエルとカオリは、バーのメニューからハンバーガーとカクテルを2人分頼んだ。乾杯をして大きなハンバーガーを頬張りながら、クルマとレースの話やカオリのキャンパスライフの話を交互にした。2杯目のカクテルを飲んでいる時に、パーシー・スレッジの『男が女を愛する時』がかかった。カオリは、ノエルの手を握ってダンスフロアへと導いた。そこで2人ははじめてチークダンスを一緒に踊った。
アメリカ人と日本人のハーフであるノエルと、目鼻立ちがはっきりとして身長も高いカオリのカップルは、横浜の街でも人目を引くようなカップルだった。若きレーサーとモデルの組み合わせだと言えば、誰もが信じたに違いない。
この晩、ノエルとカオリは横浜港の前にあったバンドホテルで一夜を共にした。ノエルにとっては、因縁のホテルである。初めて日本へ来たときに、母のキヨと泊まった従軍記者の宿舎が、このバンドホテルの前身だったからだ。そんなことも知らずに泊まった2人は、部屋の窓から望める横浜港を見ながら、お互いの若さを誇示するかのように男女の営みを朝方まで繰り返したのだった。

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