オリジナル小説「秘密の八重歯」第二章 – 8
ノエルの幼年期にとって大きな存在だったアリス
週が開けて、アリスはベビーシッターの最初の訪問日となる月曜日に、キヨが待つリチャード宅を訪れた。季節は6月の後半ですでに大学は夏休みに入っていたが、キヨは毎日通学して単位をとるための勉学に励んでいた。

キヨが専攻していたのは図書館学の一部である情報科学(Information Science)で、図書館における蔵書の整理の仕方から目録の作成法、速読やタイプライティングなどを体系的に学ぶものだった。このため、アメリカでも随一の規模を誇るミシガン大学の図書館は格好の学習場所だったのだ。
アリスは約束の時刻の5分前にリチャード宅に着くと、チャイムを鳴らした。キヨが玄関先に出てくると二人は挨拶を交わして部屋の中へと入った。リビングのベビーベッドの上では、ノエルがお腹をすかせているのか泣き叫んでいる。
「来てそうそう申し訳ないけど、ミルクを飲ませてもらえるかしら」
キヨはそう言うと、アリスに哺乳瓶を手渡した。アリスはやさしくノエルをあやしながらミルクを飲ませはじめた。赤ん坊への哺乳はもちろん、粉末からミルクを作ったり、おむつをかえるなどの作業はすでに経験しているだけに手慣れている。
「あとは、わたしがやりますから、どうぞお出かけください」
「ありがとう、わたしは18時半には戻ります。それから・・冷蔵庫のなかのものは適当に使ってもらってかまわないので、よろしくお願いね」
キヨは、アリスにそう伝えると、玄関前に停めている自転車に乗って大学へと出かけていった。
こうして、ベビーシッター生活は無事に始まったのだった。育児から開放されたキヨは、勉学に集中できるようになり、単位の取得も順調に進んでいった。
アリスが毎日来るようになってから、リチャードが駐留先のドイツから帰ってくるまでの2年間はあっという間に過ぎていった。たまにリチャードの父母が訪ねて来ることがあったが、そんな日は大学を休んでキヨが応対するようにしたので、ベビーシッターを頼んでいることは、誰にも知られずにことが運んだのだった。
そして、それから2年後の1950年6月、キヨは無事にミシガン大学を卒業したのだった。その間、リチャードはクリスマス休暇で2回ミシガンへ帰ってきたが、そんな時はキヨも大学を休んで家事育児に専念する時間をつくった。
5月で2才となったノエルも、その頃にはいくつかの言葉も喋るようになっていた。それから少しすると、ドイツでの駐留期間を終えたリチャードもアナーバーに帰ってきた。ワシントンDCから180マイルほど南下したラングレー空軍基地への転勤が決まり、その準備のために3週間ほど休暇をとったのだ。いずれはペンタゴン(アメリカ国防総省)に勤務することになるのを踏まえて、一家はワシントン郊外へと引っ越しする準備に取りかかっていた。

リチャードが帰国して一緒に暮らすようになって、キヨが困ったのはノエルがたまに“アリス”の名前を発することだった。お腹が空いたときやお漏らしをした際に決まって“アリス”と泣き叫ぶノエルを見たリチャードは、冗談めかしてキヨにこう訊ねた。
「ノエルは、よっぽどその絵本が気に入ってるようだね」
そう言いながら、ノエルのベッドの脇に置いてある「不思議の国のアリス」の絵本を見つめている。
「君が買ってあげたんだろう?」
「そうよ。わたしが幼いころから大好きだった本だもの」
「へー・・日本にもこんな本があるとは知らなかったよ」
「その頃の日本は、あなたが考えているよりもずっと近代的だったのよ」
キヨは、そう言いながらノエルの世話を続けた。そして、アリスとの2年に渡る付き合いのなかで彼女に教わったフランスのことわざを口にした。
「“よい夕食は必ず空腹によって始まる”っていうことわざを知ってるかしら? 空腹は最上の調味料っていうこと。ミルクを飲めばきっと泣きやむと思うわ」
それから2週間が経ち、一家はバージニア州のアーリントンにある一軒家へと引っ越したのだった。アナーバーを経つ3日前、キヨはノエルをラジオフライヤー(台車)に乗せてハミルトンプレイスにあるアリスの家を訪ねた。リチャードには、大学で知り合った仲の良い友だちの家へ行ってくると言って家を出た。
アリスの家に着くと、彼女は玄関前で待っていてくれた。ノエルは、アリスの顔を見るなり彼女に向かって駆け寄っていった。
「ノエル、ちょっと見ない間に大きくなったわね」
アリスは、そう言いながらノエルを抱きかかえてキスをした。そして「あなたの大好きなパンケーキを焼いてあるから食べてね」と言うと、ノエルを抱いたままキヨを家の中へと案内した。アリスの家族は全員留守で、しばらくの間キヨとノエルは紅茶とパンケーキをごちそうになりながら、リラックスした時間を過ごした。アナーバーらしい、新緑に包まれた初夏のさわやかな風の吹く一日だった。
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